[1968年12月12日のノーベル文学賞の講義の読み難いGIFからを作ったHTMLバーシオン]
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪ざえて冷しかりけり
道元禅師(1200年〜53年)の「本来面目」と顕するこの歌と、
雲を出でて我にとちなふ冬の月風や身にしむ雪や冷めたき
明恵上人(1173年〜1232年)のこの歌とを、私は揮毫をちとめられた折りに書くことがあります。
明恵のこの歌には、歌物語と言へるぼどの、長く詳しい詞書きがあって、歌のこころを明らかにしてゐます。
元仁元年(1224年)12月12日の夜、天くもり月くらきに、花宮殿に入りて座禅す。やうやく中夜にいたりて、出観の後、峰の房より下房へ帰る時、月雲間より出でて、光り雪にかがやく。狼の谷に吼ゆるも、月を友として、いと恐ろしからず。下房に入りて後、また立ち出てたれば、月また雲りにけり。かくしつつ後夜の鐘の音聞こゆれば、また峰の房へのぼるに、月もまた雲より出でて道を逆る。峰にいたりて禅堂に入らんとする 時、月また雲を追ひ来て、向うの峰にかくんとするよそほひ、人しれず月の我にともなふかと見ゆれば
この歌、これにつづけて、
山の端に傾ぶくを見おきて、峰の禅堂にいたる時
山の端にわれも入りなむ月も入れ夜な夜なごとにまた友とせむ
そして、明恵は神堂に夜通しこもってゐたか、あるひは夜明け前にまた禅堂に入ったかして、
禅観のひまに眼を開けば、有明けの月の光り、窓の前にさしたり。我身は暗きところにて見やりたれば。澄める心、月の光りに紛るる心地すれば
隈もなく澄める心の輝けば我が光りとや月思ふらむ
西行を桜の詩人と言ふことがあるのに対して明恵を「月の歌人」と呼ぶ人もあるほどで、
あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月
と、ただ感動の声をそのまま連ねた、無邪気な歌があったりしますが、夜半から暁までの「冬の月」の三首にしても,「歌を詠むとも実に歌とも思はず。」(西行の言)の趣きで、 素直、 純真、月に話しかける言葉そのままの三十一文字で、いはゆる「月を友とする」よりも月に親しく、月を見る我が月になり、我に見られる月が我になり、自然に没入、自然と合一してゐます。暁前の暗い禅堂に座って思索する僧の「澄める心」の光りを、有明けの月は月自身の光りと思ふだろうといふ風であります。
「我にともなふ冬の月」の歌も長い詞書きに明らかなように、明恵が山の禅堂に入って宗教、哲学の思索をする心と、月が微妙に相応じ相交はるのを歌ってゐるのですが、私がこれを借りて揮毫しますのは、まことに心やさしい、思ひやりの歌とも受取れるからであります。
雲に入ったり雲を出たりして、禅堂に行き帰りする我の足もとを明るくしてくれ、狼の吼え声もこはいと感じせないでくれる「冬の月」よ、 風が身にしみないか、雪が身にしみないか、月よ寒くはないか。自然そして人間にたいする、あたたかく、深い、こまやかな思ひやりの歌として、しみじみとやどしい日本人の心の歌として、私はこれを人に書いてあげてゐます。そのボッティチェリの研究が世界に知られ、古今東西の美術に博識の矢代幸雄博士も、「日本美術の特質」の一つを、「雪月花の時、最も友を思ふ。」といふ詩語に約められるとしてゐます。 雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを廷るにつけ、花の美しいのを見るにつけ、つまり四季折折の美に、自分が触れ目覚める時。美にめぐりあふ宰ひを得た時には、親しい友が切に思はれ、このよろこびを共にしたいと願ふ。美の感動が人なつかしい思ひやりを強く誘ひ出すのです。この「友」は広く「人間」とも取れませう。また、「 雪、月、花」といふ四李の移りの折り折の美を現はす言葉は、日本においては、山川草本,森羅万象、自然のすべて,そして人間感情をも含めての、美を現はす言葉とするのが伝統なのであります。そして、日本の茶道も「雪月花の詩、最も友をおもふ。」のがその根本の心で、茶会はその「感会」、よい時によい友どちが集ふよい会なのであります。ちなみに、私の小説「千羽鶴」は、日本の茶の心と形の美しさを書いたと読まれるのは誤りで、今の世間に俗悪となった茶にたいして、それに疑ひと警めを向けた、むしろ否定の作岳なのです。
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり
この道元の歌も四季の美の歌で、古来の日本人が春、夏、秋、冬に、才一に愛でる自然の景物の代表を、ただ四つ無造作にならべただけの、月並み常套、平凡、この上ないと思へば思へ、歌になってゐない歌と言へば言へます。しかし、别の古人の似た歌の一つ、僧良寛(1758年〜1831年)の辞世、
形見として何か残さん舂は花山ほととぎす秋はもみぢ葉
これ道元の歌と同じやうに、ありきたりの事柄とありふれた言葉を、ためらひもなく、と言ふよりも、ことさらもとめて、連ねて重ねるうちに、日本の精髄を伝へたのであります。まして、良寛の歌は辞世です。
霞立つ永き春日を子供らと手毯つきつつこの日暮らしつ
風は清し月はさやけしいざ共に踊り明かさむ老いの名残りに
世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我れはまされる
これらの歌のやうな心と暮らし、草の庵に住み、祖衣をまとひ、野道をさまよひ歩いては、子供と遊び、農夫と語り、信教と文学との深さを、むずかしい話にはしないで、「和顏愛語」の無垢な言行とし、しかも、詩歌と書風と共に、江戸後期、18世紀の終りから19世紀の始め、日本の近代の俗習を超脱、古代の高雅に通逹して、現代の日本でもその書と詩歌をはなはだ貴ばれてゐる良寛、その人の辞世が、自分は形見に残せるものはなにも持たぬし、なにも残したいとは思はぬが、自分の死後も自然はなほ美しい、これがただ自分のこの世に残す形見になってくれるだろう、といふ歌であったのです。日本古来の心情がこもってゐるとともに、良寛の宗教の心も聞こえる歌です。
いついつと待ちにし人は来りけり今は相見てなにか思はん
このやうな愛の歌も良寛にはあって、私の好きな歌ですが、老衰の加はった69才ちやうど私がノオベル文学賞を受けるのと同じ年令の良寛は、29才の若い尼、貞心とめぐりあって、うるはしい愛にめぐまれます。永遠の女性にめぐりあへたよろこびの歌とも、待ちわびた変人が来てくれたよろこびの歌とも取れます。「今は相見てなにか思はん。」が素直に満ちてゐます。 良寛は74才で死にました。私の小説の「雪国」と同じ雪国の越後。つまり、シベリアから日本海を渡って来る寒風に直向ひの、裏日本の北国、今の新潟県に生まれて、生涯をその雪国に過ごしたのでしたが老い衰へて、死の近いのを知った、そして心がさとりに澄み渡ってゐた、この詩僧の「末期の眼」には、辞世にある、雪国の自然がなほ美しく映ったであらうと思ひます。私に「末期の眼」といふ随筆がありますが、ここでの「末期の段」といふ言葉は、芥川 龍之介(1892年 〜1927年)の自殺の遺書から拾ったものでした。その遺書のなかで、 殊に私の心を惹いた言葉です。「所謂生活力といふ」、「動物力」を 「次第に失ってゐるであらう」、
僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡っと、病的な神経の世界である。〔中略)僕がいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。 唯自然はかういふ僕にはいつもよりもー層美しい。君は自然の美しいのを愛ししかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである。
1927年、芥川は35戈で自投しました。私は「末期の眼」のなかにも、「いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い。」と書いてゐますが、芥川や太宰の自殺を賛美するものでも、共感するものでもありません。
これも若く死んだ友人、日本での前衛画家の一人は、やはり年久しく自殺を思ひ、「死にまさる芸術はないとか、死ぬることは生きることだとかは、口癖のやうだったさう」(「末期の眼」)ですが、仏教の寺院に生まれ、仏教の学校を出た、この人の死の見方は、西洋の死の考え方とはちがってゐただらうと、私は推察したことでした。「もの思ふ人、誰か自殺を思はざる。」でせうが、そのことで、私の胸にある一つは、あの一休禅師(1394年〜1481年)が、二度も自殺を企てたと知ったことであります。
ここで一休を「あの」と言ひましたのは、童話の頓智和尚として子供たちにも知られ、無礎奔放な奇行の逸話が広く伝はってゐるからです。「童児が膝にのぼって、ひげを撫で、野鳥も—休の手から餌を啄む」という風で、これは無心の極みのさま、そして親しみめすくやさしい僧のようですが、実はまことに峻厳深念な禅の僧であったのです。 天星の御子であるとも言はれる一休は、6才で寺に入り、天才少年詩人のひらめきも見せながら、宗教と人生の根本の疑惑に悩み、「神あらば我を救済へ。神なくんば我を湖底に沈めて、魚の腹を肥せ。」と、湖に身を投げようとして引きとめられたことがあります。また後に、一体の大徳寺の一人の僧が自殺したために、数人の数は獄につながれた時、一休は責任を感じて「肩の上重く」、山に入って、食を絶ち、死を決したこともあります。一休はその「詩集」を自分で「狂雲集」と名づけ、狂雲とも號しました。そして、「狂雲集」とその続集には、日本の中世の漢詩、殊に禅僧の詩としては、類ひを絶し、おどろきに胆つぶすほどの恋愛詩、閨房の祕事までをあらはにした艶詩が見えます。一休は魚を食ひ、酒を飲み、女色を近づけ。神の戒律、禁制を超越し、それらから自分を解放することによって、そのころの宗教の形骸に反逆し、そのころ国内の戦乱で崩壊の世道人心のなかに、人間の実存、生命の本然の復活、確立を志したのでせう。
一休のゐた京都紫野の大徳寺は、今日も茶道の本山のさまですし、一休の墨蹟は茶室の床の掛け物として貴ばれてゐます。私も一休の書を二幅所蔵してゐます。その一幅は「仏界入り易く、魔界入り難し。」 と一行書きです。私はこの言葉に惹かれますから、自分でもよくこの言蕖を揮毫します。意味はいろいろに読まれ、またむずかしく考へれば限りがないでせうが、「仏界入り易し。」につづけて「魔界入り難し。」 と言ひ加へた、その禅の一休が私の胸に来ます。究極は真、善、美を目ざす芸術家にも、「魔界入り難し。」の願ひ、恐れの、祈りに通ふ思ひが、表にあらはれ、あるひは裏にひそむのは、運命の必然でありませう。「魔界」なくして「仏界」はありません。そして、「魔界」に入る方がむづかしいのです。心弱くてできることではありません。
逢仏殺仏、逢祖殺祖
これはよく知られた禅語ですが、他力本願と自力本願ととに仏教の宗派を分けると、勿論自力の神宗には、このように激しくきびしい言葉もあるわけです。他力本願の真宗の親鸞〔1173年〜1262年)の 「善人往生す、いはんや悪人をや。」も、一休の「仏界」「魔界」と通ふ心もありますが、行きちがふ心もあります。その親鸞も「弟子1人持たず候。」と言ってゐます。「祖に逢べは祖を殺し。」、「弟子1人持たず。」は、また芸術の厳烈な運命でありませう。
禅宗に偶像崇拝はありません。神寺にも仏像はありますけれども、修行の場、座禅して思索する堂には仏橡、仏画はなく、経文の備へもなく、瞑目して、長い時間、無言、不動で座ってゐるのです。そして無念無想の境に入るのです。「我」をなくして「無」になるのです。 この「無」は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、方有が自在に通ふ空、無涯無辺、無尽蔵の心の字宙なのです。禅でも師に指導され、帥と問答して啓発され、禅の古典を習学するのは勿論ですが、思索の主はあくまで自己、さとりは自分ひとりの力でひらかねばならないのです。そして、論理よりも直観です。他からの教へよりも、内に目ざめるさとりです。真理は「不立文字」であり、「言外」にあります。 維摩居士の「黙如雷」まで極まりもしませう。中国の禅宗の始祖、達磨大師(6世紀ごろの人、南インドの王子、中国に渡る。)は「面壁9年」と言ひまして、洞窟の岩壁に向って9年間座りつづけながら、沈思黙考の果てに、さとりに達したと伝へられてゐます。禅の座禅はこの達磨の座禅から来てゐます。
問へば言ふ問はねば言はぬ達磨どの心の内になにかあるべき
(一休)
また、同じ一休の道歌、
心とはいかなるものを言ふならん墨絵に書きし松風の音
これは東洋画の精神でもあります。東洋画の空問、餘白、省策もこの墨絵の心でありませう。「能画一枝風有声」(金冬心)です。道元神師にも、「見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明るむ。」との言葉があります。日本の花道、生け花の名家の池坊専應(1532年〜1554年)も、その「口伝」に、「ただ小水尺樹をもって、江山数程の勝機(おもむき)を現はし、暫時傾刻のあひだに、千变方化の佳興をもよほす。あたかも仙家の妙術と言ひつべし。」と言ってゐます。日本 の庭園もまた大きい自然を象徴するものです。西洋の庭圍が多くは均整に造られのにくらベて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、広いものを象徴出来るからでありませう。勿論その不均整は、日本人の繊細微妙な慼性によって釣り合ひが保たれての上であります。日本の造圍法ほど複維、多趣、綿密、したがってむづかしい造園法はありません。「枯山水」といふ岩や石を組み合はせるだけの法は、その「石組み」によって、そこにない山や川、また大海の波の打ち寄せるさままでお現はします。その凝縮を極めると、日本の盆栽となり、盆石となります。
「山水」といふ言葉は、山と水、つまり自然の景色、山水画、つまり風景画、庭園などの意味から、「ものさびたさま」とか、「さびしく、みすぼらしいこと」とかの意味まであります。しかし、「和敬清寂」の茶道が尊ぶ「わび、さび」は、勿論むしろ心の豊かさを蔵してのことですし、極めて狹小、簡素の茶室は、かへつて無辺の広さと無限の優麗とを宿してをります。一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思はせるのです。開き切った花を活けてはならぬと、利休も教へてゐますが、今日の日本の茶でも、茶室の床にはただ一輪の花、しかもつぼみを生けることが多いのであります。冬ですと、冬の季節の花、たとえば「白玉」とか「佗助」とか名づけられた椿、椿の種類のうぢでも花の小さい椿、その白をえらび、ただ一つのつぼみを生けます。色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持ってゐます。そして、そのつぼみには必ず露をふくませます。幾滴かの水で花 を濡らしておくのです。5月、牡丹の花を青磁の花瓶に生けるのは、茶の花として最も豪華ですが、その牡丹はやはり白のつぼみ一つ、そ してやはり露をふくませます。
花に水のしづくを添へるばかりではなく、花生けもあらかじめ水に濡らしておく焼きものが少くありません。
日本の焼きものの花生けのなかで、最も位が高いとし、また価ひも高い、古伊賀(およそ15、6世紀)は水に濡らしてはじめて目ざめるように、美しい生色を放ちます。伊賀は強い火度で焼きますが、その焚きもの(燃料)の藁灰や煙が降りかかって花瓶の艶に着いたり流れたりで、火度のさがるにしたがって、それが釉薬のやうになるのです。陶工による人でなく、窯のなかの自然のわざですから、窯変と言ってもいいような、さまざまな色模様が生まれます。その伊賀焼きの渋くて、粗くて、強い肌が、水気を含むと、艶な照りを見せます。花の露とも呼吸を交はします。茶碗もまた便ふ前から水にしめしておいて、潤ひを帯びさせるのが、茶のたしなみとされてゐます。
池坊専應は「野山水辺おのづからなる姿」(「口伝」)を、自分の流派の新しい花の心として、破れた花器、枯れた枝にも、「花」があり、そこに花によるさとりがあるとしました。「古人、皆,花を生けて、悟道したるなり。」禅の影響による、日本の美の心の目ざめでもあります。日本の長い内乱の荒廃のなかに生きた人の心でもありませう。日本の最も古い歌物語集、短編小説とも見られる話を多く含む「伊勢物語」(10世紀に成立)、のなかに、
なさけある人にて、かめのなかにあやしき藤の花ありけり。花のしなひ、三尺六寸ばかりなむありける。
といふ、在原行平が客を招くのに花を生けた話しがあります。花房が三尺六寸も垂れた藤とは、いかにもあやしく、ほんとうかと疑ふほどですが、私はこの藤の花に平安文化の象徴を感じることがあります。 藤の花は日本風にそして女性的に優雅、垂れて咲いて、そよ風にもゆらぐ風情は、なよやか、つつましやか、やはらかで、初夏のみどりのなかに見えかくれで、もののあはれに通ふやうですが、その花房が三尺六寸となると異様な華麗でありませう。唐の文化の吸収がよく日本風に消化されて、およそ千年前に、華麗な平安文化を生み。日本の美を確立しましたのは、「あやしき藤の花」が咲いたのに似た。異様な奇蹟とも思はれます。歌では初めての勅撰和歌集の「古今集」(905年)、小説では「伊勢物語」、紫式部(970年ごろ〜1002年ごろ)の「源氏物語」、清少納言(966年ごろ〜1017年、最終生在資料) の「枕草子」など、日本の古典文学の至上の名作が現れまして、日本の美の伝統をつくり、八百年間ほどの後代の文学に影響をおよぼすといふよりも、支配したのでありました。殊に「源氏物語」は古今を通じて日本の最高の小説で、現代にもこれに及ぶ小説はまだなく、十世紀に、このやうに近代的でもある長編小説が書かれたのは、世界の奇績として、海外にも広く知られてゐます。少年の私が古語をよく分らぬながら読みましたのも、この平安文字の古典が多く、なかでも、「 源氏物語」が心におのづからしみこんでゐると思います。「源氏物語 」の後、日本の小説はこの名作へのあこがれ、そして真似や作り変へが、幾百年も続いたのでありました。和歌は勿論、美術工芸から造園にまで、「源氏物語」は深く広く美の糧となり続けたのであります。
紫式部や清少納宫言、また和泉式部(979年〜不明)や赤染衛門(およそ957年〜1041年)などの名歌人もみな宮仕への女性でした。平安文化一般が宮廷のそれであり、女性的であるわけです。「源氏物語」や「枕草子』の時は、この文化の最盛期、つまり爛熟の絶頂から頽敗に傾きかける時で、すでに栄華極まった果ての哀愁がただよってゐますが、日本の王朝文化の満開がここに見られます。やがて、王朝は弱まって、政権も公卿から武士に移って、鎌倉時代(1192年〜1333年)となり、武家の政治が明治元年(1868年)まで、おほよそ七百年つづきます。しかし、天皇制も王朝文化も滅び去ったわけではなく、鎌倉初期の勅撰和歌集、「新古今集」(1205念)は、平安の「古今集」の技巧的な歌法をさらに進めて、言葉遊びの弊もありますが、妖艶、幽玄、餘情を重じ,感覚の幻想を加へ、近代的な象徴詩に通ふのであります。西行法師(1118年〜1190年)は、この二つの時代平安と鎌倉とをつなぐ代表的歌人でした。
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを夢路には足を休めず通へども現に一目見しごとはあらず
など 「古今集」の小野小町の歌は、夢の歌でもまだ卒直に現実的ですが、それから「新古今体正」を経た後、さらに微妙となった写生
群雀声する竹にうつる日の影こそ秋の色になりぬれ
真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく
など、室町時代(14世紀〜16世紀)の一休と同じころの永福門院の歌は、日本の繊細な哀愁の象徴で、私により多く近いと感じられます。
「冬雪さえて冷しかりけり」の歌の道元禅飾や、「われにともなふ冬の月」の歌の明恵上人は、ほぼ「新古今集」の時代の人でした。
明恵は西行と歌の贈答をし、歌物語もしてゐます。
西行法師常に来りて物語りして言はく、我が歌を読むは遙かに尋常に異なり。花、ほととぎす、月、雪、すべて万物の興に向ひても、およそあらゆる相これ虚妄ななること、眼に遮り、耳に満てり。また読み出すところの言句は皆これ真言にあらずや、 花を読むとも実に花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず。ただこの如くして、縁に隨ひ、興に隨ひ、読みおくところなり。紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かがやけば虑空明らかなるに似たり。しかれども、虚空は本明らかなるものにあらず。また色どれるにもあらず。我またこの虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どるといへども更に蹤跡なし、この歌即ち是れ如来の真の形体なり。
(弟子喜海の「明恵伝」より)
日本、あるひは東洋の「虚空」、無はここにも言ひあてられてゐます。私の作品を虚無と言ふ評家がありますが、西洋流のニヒリズムという言葉はあてはまりません。心の根本がちがふと思ってゐます。 道元の四季の歌も「本来の面目」と題されてをります通りに、四季の美を歌ひながら、実は強く禅に通じたものでありませう。
①出観 | 神定より出づることをいふ、神定は心を一所に集注して静かに真理を考えること。 |
②後夜 | 夜半より暁までをいふ。 |
③後夜の鐘 | 夜半よりの勤行のはじまりを報せる鐘の音。 |
④有明 | 月が空に見えたままで夜が明ける、その月。 |
⑤西行(1118~90) | 平安後期〜鎌倉前期、「新古今集」時代の名歌人。 |
⑥「黙如雷」 | 維摩居士の沈黙、不言説にして百雷の如き力あり。 |
⑦維摩、梵語の | Vimalakirtiの音訳 ユイマはインドの長者で、在家のまま替躂道を行じた。(ただし架空の人物)「維摩経」は大乗仏教の経典の一つ。 |
⑧金冬心 | 中国清時代の文人画家。 |
⑨しなひ | 長く垂れなびくこと。 |